埼玉県比企郡小川町は、埼玉県のほぼ中央に位置する。古くから小川和紙や小川素麺、酒造などの伝統産業が盛んな土地で、宿場町として商業も栄え、「武蔵の小京都」と呼ばれている。近年では、有機野菜への取組みでも広く知られ、自然と共存する豊かな暮らしを求めて移住者も増えており、2022年には流入人口が流出人口を上回ったという注目のまちである。
その小川町の駅前通りにある空き家となっていた築100年の旧老舗旅館を、新たな宿として、また地域のコミュニティの場として再生した事例がある。女将の鈴木鴻淑さんに「小川宿 鴻倫(おがわやど こうりん)」 を開業するまでのお話とこれからのまちへの展望をうかがった。
韓国から来日。縁あって小川町で起業を試みる
──女将は小川町の出身ではないとお聞きしました。どのようなご縁があって小川町にいらしたのでしょうか?
私の出身は韓国です。母国で就職した会社からの転勤で、24年前に初めて来日しました。当時、東京で仕事をしていたのですが、身体を壊してしまい、療養するために自然を求めて郊外で暮らすことを選びました。当初はほかのまちに行きましたが、縁があって12年前に夫とともに来たのが、小川町との出会いです。
──小川町に移住されてからの出来事を教えていただけますか?
自然の豊かなところで暮らし、そのうち徐々に身体の調子も戻ってきて「なにか仕事をしたい」と気力が沸いてきました。小川町は、元は宿場町で寺社仏閣も多く、歴史と文化の香りが残っています。東武鉄道の開通前後は、その誘致や産業を盛り立てようと、政治家や経営者の方々が足しげく訪れ、料亭や割烹が賑わったようです。私は、以前から歴史を大切にしたいと思っていたので、小川町にある老舗の割烹旅館二葉さんで働かせていただきました。そのころ小川町は人口も減少して、ビジネスとしてスケールするのが難しく、やむを得ず退職することになりました。
退職してからも、小川町でなにかやりたいと思い、ビジネスの勉強を始めました。そこで、2017年に駅前のビルの2階を借りて、小川町の有機野菜を使った料理を出すレストランをオープン。カレーをつくって売り出し、好評をいただいたのを機に「小川こうちゃんカレー」と名付けました。いまでは小川町にカレーをつくるお店が増えてきて、嬉しいことにカレーのまちとしても注目されています。
──レストラン経営をされて、さらにこの小川宿 鴻倫を開業しようと思ったきっかけは何だったのでしょうか?
レストランのお客様からよく「小川町には宿が少ない」と聞いていました。昔は宿場町だったのに、老舗旅館の二葉さん以外に、あまり宿泊する場所がなかったんです。このあたりは、ゴルフや観光で秩父に向かうお客様も多く、需要はあるのに「もったいないな」と思っていました。
レストランの営業を開始してから小川駅前のロータリーを中心に自主的に掃除していたのですが、この商店街ができて最初の旅館である新井屋旅館がずっと空き家のままで、気になっていました。だんだん、ここを使って(新たに)宿ができないかなと考えるようになったのです。
粘り強く交渉し建物を購入。独自の歴史を生かすリノベーションを計画
──この建物を宿として再生するまでの経緯を教えていただけますか?
“何事もチャレンジしないと分からない”と思い、まず、空き家となっている新井屋旅館について相談できる方を探しました。そこで新井家の方々とつながったのですが、最初は皆さんも「本当にやるの?」と半信半疑だったようです。でも、私は諦めきれなくてアプローチを続けていました。
しばらくして、「それなら、一度中を見てみますか?」と声をかけていただき、ようやく室内を見ることができました。もちろん覚悟はしていたのですが、室内はぼろぼろだったのです。旅館の時の残置物などもあり、「これは大変だぞ」と思いました。でもやっぱり、宿への思いを断ち切れず「ぜひ使わせてほしい」とお願いしました。
私の本気度がやっと伝わったのか、2019年12月に新井家の承諾を得ることができました。2020年3月に建物を引き渡し予定だったのですが、コロナ禍に突入し延期。「本当にやるんですか」と心配されましたが、せっかくのご縁とご厚意があってここまでたどり着けたので、腹をくくって「やる」と決めました。そして、2020年9月にようやく建物の引き渡しが完了しました。
引き渡し後に中に入ってみると、新井家の方々がきれいに掃除してくださっていて感動しました。旅館の残置物は「使えるものがあったら使ってください」とお申し出いただきました。旅館を運営していた時の食器棚や100年前の女将さんが使っていた桐ダンスやなどのほか、床下からは昔の「芸妓 榮家」の看板も出てきて、置き屋さんの時代もあったことが分かりました。そのような価値ある品々を目の当たりにして、この宿のこの歴史をこれから大切にしていかなくてはいけない、と気が引き締まりました。
──建物再生と宿の開業にあたって、資金繰りはいかがでしたか?
新井家のご厚意で建物の取得にはほぼお金はかからなかったのですが、建物の改修費と運営費に多額の資金が必要でした。
資金調達を行うにあたっては、レストラン運営で開発した小川こうちゃんカレーを商標登録し、通信販売を開始しました。それだけでは賄い切れなかったのですが、まちの発展にもつながる今回の事業計画が評価され国の補助金や金融機関からの融資がかない、ようやく資金の目途が立ちました。
リノベーションは、耐震補強や残せる箇所の選別など課題も少なくありませんでした。できるだけ地元の方々と宿を再生したかったので、小川町の大工さんにお願いしました。2020 年の旧新井旅館取得から 2 年半の歳月をかけ、2022 年 10 月にようやく宿をオープンすることができました。
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